タイトル見て、懐かしい!!ということで農中茂徳さんの「三池炭鉱宮原社宅の少年」を読んでみました。
少年時代の記憶が蘇ってきました。
実は大牟田に住んでいた、なので懐かしい!
実は自分の実家が福岡県大牟田市にありまして、実家の校区内にも炭鉱の社宅があり、当時は炭鉱の社宅に同級生がたくさんいました。
大牟田を出て関西に来てずいぶん経ち、とうの昔に社宅はなくなって、社宅にいた友人との付き合いはなくなり、帰郷するたびにさびれて行く大牟田の街に、昔の友達はどうしているのかと想う今日この頃。
そんななか、この本を読んでみたら、いやぁ懐かしい!
大牟田の懐かしい方言や遊びが昔を思い出す
農中茂徳さんは戦後直後の1946年生まれですので世代的にはだいぶ上ですが、三池炭鉱宮原社宅は実家から結構近く。地名やら施設やら遊びやら懐かしいものばかり。
おそらく農中茂徳さんが育った時代は大牟田市が活気で溢れていた時代だと思います。
三池炭鉱宮原社宅は「三池工業高校」の近くにあります。宮原社宅の中に入ったことはないですが、近くはよく通ったことがあります。「あくすい川」という川が登場しますが、名前は知らないですが、おそらくあの川だろうと推測できます。
「三池炭鉱宮原社宅の少年」では大牟田の懐かしい方言が飛び交います。
- 人玉ば見た人のおらしたげな
- 飲みきらんばい
- 飲みきらんとよ
- 羽犬の塚のことやろうもん
- かてて
- どげんでんよかやっか
- ばってん、今日は早かばい
- どげん、さしたっじゃろか
- 何か、あったつかもしれん
- ああ、うまか
- なんばしよっとかね
- ツチダばくらせた
- ほんこつ、しからしか
- (通信簿で)五があるとばい
- (通信簿で)五とかなかくさ
- そげん頭がよかったつか
- そげんか話は聞いたこつんなか
- ばってん、嘘じゃなかごたる
大牟田弁、博多弁にも似ているし、熊本弁にも似ていますが、やっぱ独特ですねぇ。上の方言、大牟田出身者ならわかると思いますが、博多の人や熊本の人もわかるのかな?
昔、大分の人と喋っていたら、大牟田弁が通じなかったことが結構ありました。
おお!懐かしい遊び!と思った本で紹介された遊びは、
- カン蹴り
- 馬跳び
- 馬乗り
- 長縄跳び
- 走って止まれ
- たすけ鬼
- ひまわり合戦
- 独楽
- パチ(めんこ)
- ラムネン玉
- 六文字
- かくれ鬼
- 段とび(ゴム紐とび)
馬乗りとかひまわり合戦とか、小学校でよく遊びました。ひまわり合戦は特に好きでした。
昔は大牟田にも海水浴場がありました
若い人は知らないでしょうけど、昔は三池港の北側に三池海水浴場という海水浴ができる場所があったんですよね。子供の頃、海水浴や潮干狩りやってました。
この本でも三池海水浴場の話が出てきます。
三池海水浴場で自分の子供と潮干狩りしようと連れて行こうとしたら、海水浴場が閉鎖されていて愕然とした記憶があります。海が汚くなったからと聞きましたがどうなんでしょう・・・。
延命中学校の謎
あと知らなかった話も。
三池炭鉱の社宅には雇用の身分によって六階級に分かれていたそうです。係長クラスの四級までは浴場を備えていたそうで、五級(係員)以下には付いておらず、六級は一般鉱員用の集団社宅だったそうです。
三池炭鉱宮原社宅では、著者の子供の頃の当時、身分によって子供が通う学校も区別されたようで、著者は米生中学校に、四級以上の社員の子供は延命中学校に通っていたのだそうです。
同じ社宅の中に住んでいるのに、通う中学校が違っているとは不思議ですね。本の中で書かれてますが、同じ社宅内に住んでいて同世代の子供だったのにまったく顔を合わせたことがない人もいたそうです。
実は延命中学校は右京中学校の分校だったそうです。
著者の農中さんの推測になりますが、
延命中学校と右京中学校との関係には、「地域と文化」の問題があったと思われる。大牟田には、三池鉱山東京本社の関係者が数多く転勤して来ていた。家族ぐるみの転勤の場合もあった。学齢期の子供がいると、親としては通う学校のことが心配になる。いずれ東京に戻るのだから、東京の文化と言葉を大切にしたい。できることなら、大牟田の文化と言葉に染まらないですむような学校に通わせたい。そういう要望が強まり、市の行政もこれを受け入れた。そして、右京中学校の分校として延命中学校が開設された。さらに延命中学校の進路先は、大牟田南高校ではなく、遠くにある三池高校だった。
(三池炭鉱宮原社宅の少年 P.195)
なるほどね。自分の中学生時代に、同じ地域に住んでいるのに中学校が違うことがあったのか知りませんが、延命中学校って人気があったんですよね。わざわざ校区が違うのに、中学校からは延命中学校に進む同級生がいたのを思い出しました。そういうことだったのか・・・。
右京中学校と延命中学校がめちゃ近かった不思議さにも納得。
ひょっとして自分が子供の頃にも、同じ校区内にあった社宅内に住む子供達の中で、違う小学校や中学校に通っていた子供がいたのでしょうか?今となっては謎・・・。
三池高校は前身が旧制中学校だった。伝統的なので人気があった。しかしそこに進みたいと思っても、米生中学校や右京中学校。船津中学校、勝立中学校の生徒である場合はできない仕組みになっていた。しかし、同じ宮原社宅にいながら、サツキさんは職員社宅で、私は鉱員社宅。その違いだけで、その後の進路に大きな違いが生じていたのである。
三池炭鉱宮原社宅の少年 P.193)
小学区制の時代における中学校の進路先は、船津と右京中学校は大牟田南高校。延命中学校は三池高校と線引きされていた。
(三池炭鉱宮原社宅の少年 P.194)
昔は三池高校に進みたいと思っていても進めなかったのか。これも知らんかった。我々の時代は変わってましたけど。
ちなみに延命中学校、右京中学校、船津中学校の3校は、2015年に再編され、宅峰中学校として開校したそうです。炭鉱も閉山し、年々人口も減っているからなんでしょうね。
羽犬塚はハイヌヅカではなくハインヅカだった
話は代わりますが、大牟田市の近くに羽犬塚駅の話も興味深かった。羽犬塚=はいぬづかと呼ぶと思っていたら、ハインヅカと呼ぶらしい。どうも犬ではないようです。
司馬遼太郎の「草原の記」によると羽犬塚は、奈良・平安時代の頃、律令で定められた駅があった周辺になるそうで、駅馬が飼われていて、駅馬は古語ではゆま(逸ま)と言うそうで、そこに駅馬を葬った塚があり、そのうち真の意味は忘れ去られて羽犬塚となったということです。
なかなか大牟田市もその周辺も謎が多いですね。今住んでいる関西は歴史が長く興味深いですが、大牟田も筑後も興味深いことが多いことがわかりました。子供の頃には気づきませんでしたが。
まとめ
「三池炭鉱宮原社宅の少年」を読んだら、少年時代の色々な記憶が蘇ってきました。子供のころ疑問に思っていたことも。
今度実家に帰ったら、大牟田のことを色々親に聞いてみよう。
「三池炭鉱宮原社宅の少年」、子供の頃に大牟田市に住んでいた40代以上の人達に是非読んでもらいたいです。実際に炭鉱の社宅に住んでいた人ならば、更に感慨深い内容だと思います。
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